記録 平成13年 2001年から

20010101aisatsu  新年ご挨拶

20010108eu 海外旅行(その6 ヨ−ロッパ一巡り)

20010110minami 海外旅行(その7 南まわり帰国)

20010115IT  「IT革命」のことなど 0弘前市医師会報,275,93−95,平成13.2.15.

「ロ−マ法王がミレニアム(千年紀)のミサで”われわれキリスト教徒は・・・”といっていたとのことですが、教徒でない私も、今国際的に広く通用している・・・という意味で・・・新年のご挨拶を」

20010201gijyuku  「義塾」のこと 0弘前市医師会報,275,51−53,平成13.4.15.

先日「130年の歳月越え写真は残った 東奥義塾創設者・菊池九郎ら 若き志士りりしく」と弘前藩に命ぜられて内地留学した際に撮影されたと見られる写真があったと東奥日報2001.1.29.に報道されていた。

20010213yumi 創部80周年によせて 0Der Bogen,Vol25,35,慶應義塾大学医学部弓道部創部八十周年記念号

慶應義塾大学医学部弓道部が新世紀を迎える今年82周年になり信濃町のキャンパスに新道場ができるとのこと、

20010220einews1 衛生学教室Newsから(その1)(昭和61年退官記念会のこと)

20010220einews2 衛生学教室Newsから(その2)(昭和61年柴垣さんの退職を祝う会のこと)

20010225gen 「ハ−バ−ドがんちゃん」のこと 0弘前市医師会報,277,53−55,平成13.6.15.

「ハ−バ−ドがんちゃん」とは新潟大学名誉教授渡辺厳一先生の書いた本の題名である。

20010228eiseinews75 衛生学教室NewsのこととNo.75

20010315futsuubu 普通部時代のこと

普通部とは慶應義塾の中学校のことである。 兄(正亮)からの手紙に「普通部百年誌が出席者に貰った分と投稿者に送られてきたものと二部重なったので、もしそちらに来ていなければ送ります」とあったので「こちらにありませんので」と返事を出したら、「目路はるか」の百年誌が送られてきた。

20010318eiseinews31 衛生学教室News31から(佐々木武田永年勤続祝賀会黒石落合温泉)

20010325eiseinews 衛生学教室NewsNo.1− No.8− No.11− No.15- No.19− No.23- No.27-

  No.31-  No.35- No.39- No.44- No.47- No.51- No.55- No.59- No.63- No.67- No.71-          

20010417DrFriday ドクタ−・フライデ−のこと 0弘前市医師会報,278,49−51,平成13.8.15.

ドクタ−・フライデ−とは福島県立医科大学名誉教授・前衛生学教授星島啓一郎先生のことである。 

20010510spur40  弘前だより(その40) 0SPUR,40,4,平成13.

20010526cyapatsu チャパツ 0日本医事新報,4031,7,2001.7.28.

サッカ−のカズが試合の途中で交代を告げられ、「このおれか!?」と答えたときのテレビの映像が記憶にある。

20010526gakumon 勉強研究のはじめの覚え書き 0弘前市医師会報,279,52,平成13.10.15.

戦争が終わり、復員収容の仕事が終わったとき、一人身でもあった気軽さから、もう一度勉強し直そうと考えた。

20010625bennkyou  勉強することと学位 0弘前市医師会報,279,52−55,平成13.10.15.

戦争がおわったとき、一切の出直しだ、もう一度勉強し直さなければと思った。思っただけで具体的には何も分からなかったし、将来どうなるかとという見通しは何もなかった。

20010710kyoujyu  教授になるということ 0弘前市医師会報,280,52−54,平成13.12.15.

「白い巨塔」が話題になっていたころ、TVのドラマをみていたら、「財前助教授」ふんする役者(若くして死んだ田宮二郎だったか)が愛人の家によって、ベットの中で口にしたセリフが忘れられない。

20010718dilennma ジレンマ・トリレンマ そして疫学 0弘前市医師会報,281,61−63,平成14.2.15.

ジレンマとは「dilemma」で、接頭語の「di」は二重のであり、「lemma」は仮定であって、二重の困難な仮定にはさまれることとあった。一方を立てれば他方が立たないような相矛盾する二つの事柄であり、二者択一のジレンマ・板挟みである。

20010729shizoku  士族のこと 0弘前市医師会報,281,63−64,平成14.2.15.

 「先生の家は士族なのですね」と言われた方がいた。 「衛生の旅」を差し上げた方だったが、そのお礼のときに言われた言葉だった。

20010811wcc6  第6回世界心臓学会議へ出席して(1970年の記録)

20010815wcc6shokuenn  高血圧における食塩因子 0日本医事新報,2426,30−31,昭45.10.24.

20010822kokusai  記録・国際的なかかわりについて

1954年昭和29年弘前大学へ赴任したとき、衛生学教室の図書室に雑誌「Human Biology」があった。

20010825MMK  MMKの時代

「MMK」とは「もてて・もてて・こまる」という意味で、海軍時代に覚えた言葉である。 NHKの「日本人の質問」問題によく出る「業界用語」の一つであると思う。

20010905activelife  健康の女神 0Active Life Vol.9,平成14.1.1.

こんどのオリンピックは私の「世界塩の旅」のひとつソルトレイクとアテネだ。 アテネといえばギリシャ。ギリシヤといえば「コス島への旅」が思い出される。

20010910morishita 森下君のこと

こんどの戦争では多くの友人を失った。その中の一人森下孝(たかし)君のことを書いておこう。 こんどといっても私は日清・日露の戦争のことは知らない。

20010912business ビジネス 0日本医事新報,4054,41,2002.1.5.

介護保険が言われたら、「ビジネス・チャンスだ」言った人がいた。 医療に関係していることがビジネスだといわれると、どうもと思うのは自分だけだろうか。

20010925  「クイズ面白ゼミナ−ル」レクチャ−動画

20011016Geriatrics Geriatrics 1964 論文

20011019RavenPress Raven PressへのSalt Factor(1979)の論文

20011020EpiAMN  Martinus Nijhoff への Epidemiological studies on hypertension in Northeast Japan(1980)の論文

20011023Waksman Waksman基金助成研究報告「Epdemiological studies on hypertension}

20011130NHKTV NHK-TVの取材を受けるの記 0弘前市医師会報,283,52−53,平成14.6.15.

2か月も前のことだったか。 NHKから電話ですということで出たら、Kさんということだった。 いつも決まりの「私の名前が何故?」と受けた。

20011202rinngo  「りんご博士」のこと 0弘前市医師会報,283,53−54,平成14.6.15.

「”日本の塩の先生はどうしていますか”と聞かれましたよ」と勝木司馬之助先生からいわれ、それは何故なのかと推理したことについては「食塩覚書」に書いたが、今度は「りんご博士」と書かれたことについてふれておこうと思う。

20011203zadan  東奥日報社主催「りんごと健康」座談会に出席(2002.1.3.東奥日報紙掲載)

20011210epidemiologist 私はエピデミオロジスト 0弘前市医師会報,282, 73−74,平成14.4.15.

 いつかこんな題で書いて置きたいと思っていた。 エピデミオロジスト「epidemiologist」、日本語では「疫学者」である。 ことのおこりは「Who's Who in the World」の原稿のチェックの手紙がきたときから始まった。

20011215tsue  私のツエは護身用 0日本医事新報,4106,44−45,2003.1.4.弘前市医師会報,285,70,平成14.10.15.

人の一生をパントマイムで演ずる芸を昔見た記憶がある。 赤ちゃんのはいはいから始まって、「立てば歩めの親心」、少年から大人になり、さっそうと歩く姿、やがて腰が曲がり、杖をつき、最後は横たわるという演技であった。

20011215jigohou  事後法のこと 0弘前市医師会報, 282,74−75,平成14.4.15.

「事後法」とは「行為時に法律上犯罪とされていなかった行為を、後で制定された法律によって処罰することを禁ずる原則」とあった。

20011222TIA  「一過性脳虚血発作発見のための疫学的調査」についての覚書

われわれが行ってきた脳卒中の予防についての疫学的研究のうちで「一過性脳虚血発作発見のための問診についての野外経験」につての覚書を書いておこうと思う。

20011224kennkou  「健康農村建設協議会・昭33・弘前市狼ノ森」の記録から

労動科学研究所(労研)の中に「健康社会建設協会」があった、理事長は暉峻義等先生であった。そして健康農村建設全国協議会を主催していたが、その第5回の健康農村建設全国協議会が弘前市狼ノ森で昭和33年8月9-10日に開催されている。

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