「義塾」のこと

 

 「おしん、澪つくし、いのちと、時代をおってドラマがつづいたが、今回のいのちの舞台の中心が津軽の弘前である。

 八甲田の山々を遠くにながめ、岩木山のふもとに、ひっそりとある城下町、それが弘前だ。

 その弘前には、塾員にとってはなつかしい義塾と名のついた高等学校、東奥義塾がある。明治5年に慶應義塾に学んで帰った元藩士の菊池九郎らによって創立されたのだから、本当になつかしい」

塾友(338,58-60,昭61)に書いたことがあった。

慶應義塾の弓術部で一緒だった石黒君(編集委員)からの依頼であったと記憶している。

 先日「130年の歳月越え写真は残った 東奥義塾創設者・菊池九郎ら 若き志士りりしく」と弘前藩に命ぜられて内地留学した際に撮影されたと見られる写真があったと東奥日報(2001.1.29.)に報道されていた。

 この弘前で「義塾」といえば「東奥義塾」をイメ−ジするようであるが、私にとっては三田綱町に生まれ「福沢の大先生のお開きなさった慶應義塾 その幼稚舎に」と小学校で歌った本当になつかしい名前である。

 「慶應」は「これを創立の年号を取って仮に慶應と名ずく」と説明されているから慶應・明治・大正・昭和・平成とつづく時の年号を唯とっただけだと分かる。

 では「義塾」はどうか。

 塾(じゆく)は 1 門の側の堂舎,門の両わきにある建物 2 子弟の学術を教授する私設の学舎、私塾、「進学塾」 3 修学のための子弟の寄宿舎 とあり、また義塾とは寄付などでつくられた公益のための塾と辞書にあった。

 慶應義塾の歴史によれば、福沢諭吉先生は安政5年(1858年)蘭学塾としての通称「福沢塾」という私塾を創設されたが、それから10年たった慶應4年(1868年)、9月からは明治元年になったその年の4月に「慶應義塾之記」という宣言文ともいうべきものの中で「会社ヲ立テ 義塾ヲ創メ」「洋学ニ従事シ」「慶應義塾」と命名されたとあった。

 ここに慶應義塾が誕生するわけだが、その目的は「単に一所の学塾として甘んずるを得ず」「その目的は日本国に於ける気品の泉源知徳の模範ならん・・」と述べられた。

 私にとっては「義」には色々な意味があり、その使い方も様々あるので、「義塾」の「義」に福沢先生がどのようなメッセ−ジを含ませたのか知りたいと思った。

これが今回のテ−マである。

 この件についていくつか私が関係したした事を書いて置きたいと思う。

 平成9年2月21日に慶應義塾塾員課へ手紙を出した。

「慶應義塾のホ−ムペ−ジ(http://www.keio.ac.jp)拝見しました。その中の「慶應義塾キ−ワ−ド」の「義塾とは」に「もとは中国・明の陶宋儀の『輟耕録』に現れた、義捐金で運営される公共の学塾、福沢はこの言葉に、英語の”パブリック・スク−ル”にあたる、あらゆる権力から独立した公共の学塾、という新たな意味を込めて名称に取り入れました」とありました。

 「福沢は・・・・取り入れました」とある「出所」「文献」お教え下さい。

 この件について、去る平成5年7月10日弘前市で開催された第41回東北連合三田会講演:津軽に学ぶ−りんごと食塩と健康の中で「福沢先生がどのような意義をふくめて「義塾」といったのか」(衛生の旅,Part 6,9,1996)と述べましたが、その時には先生の「福翁自伝」にもなぜ「義」なのか語られておらず、「出所」が分からなかったからでした。

 その折り来弘された鳥居塾長にちょっとお聞きしましたが、「大事なことだ・・」とのお話であったことを記憶しております。

 その後塾長のお話「平成5年度卒業式式辞:三田評論5月'94」で述べられているのを拝見しました。その折りにお聞きすれば良かったのですが。

 「芝新銭座慶應義塾の記」にあるようにも読みとれるのですが、できれば「原文」のコピ−でも戴きたいのですが。よろしくお願いします」

 とこれが塾員課への手紙であるが、折り返し返事があった。

 「さて、ご質問の”義塾”の由来につきまして、広報課、福沢研究センタ−に問い合わせた結果が別紙の通りです」「いくつかの学説(ここに挙げたのは3つの説)があるが、福沢先生自身が明らかにしたという事実はないようです」(塾員課太田道夫)(2.25.)

 「義塾の説明は(百年史)に書かれているものです。これは故中山一義教授がお書きになった一つの説ともいえます」「福沢研究家の中で論が別れているようです」「輟耕録には確かに”義塾”とあるが、福沢がみたとは思えない、後代の解釈と思われる」「最近の研究では名倉氏の解釈が有力広報室広報課)とあった。

 そして資料には「(義塾)という名のおこり」「義塾については全く触れるところがない」「義塾という熟語は当時はほとんど使用例がない新しい用語で、この用語こそ説明されるべきものであった。そこでこの文章を読み直してみると・・」「義塾は学校という普通名詞と同じ意味に使われているから、この学校とは先の引用文にある(彼の共立学校)を指しているようである。先生が理想的な私立学校としたのはどこの学校か? この答えを(百年史)では、イギリスのパブリック・スク−ルとしている。これは公共団体の基金によって運営される私立学校であるが、ロンドンでそれを視察された先生は、学校の機構や運営方法に大いに感ずるところがあったらしい。それが(彼の共立学校)という訳語になったと察せられる。ロンドンに滞在中に購入された英語と中国語の辞書で”public school”を引いてみると、(義学、学校)とある。この訳を日本の学塾風に(義塾)と改めたのではないかと思われる」「義塾という熟語を学校名に付した例はこれ以前にはほとんどなく(皆無ではないが)慶應義塾を最古の例としても、大きな違いはないであろう。即ち慶應の前に義塾はないといっても過言ではない」「百年史の記述によると、明治年間に「00義塾」と称した学校は125校を数えたとある」百五十年にはその数は350となり、外国での例もあるという。

 資料には江戸時代にも用語例があると紹介されていたが、「福沢先生は「義塾」という古い皮袋に、英国の私立学校制度という新しい酒を盛ったのであろう」とあった。

 これで私が知りたかった福沢先生の「義塾」に盛られたメッセ−ジは、ご本人がどう考えていたか分からないことが判明した。

 後日弟子共があれやこれやと考えていたように読みとられる。

 「現に英語で云うポリチカル・エコノミ−を経済と訳し、モラル・サイヤンスを訳して修身学の名を下したるも慶應義塾の立案なり。その他英語のスピ−チユに演説の訳字を下し」た福沢先生も、自分が創立した学校には翻訳ではなく新しい言葉をつかったのであろう。先の「気品の源泉の気品とは英語にあるカラクトルの意味にして」と述べている。

 私にとっては「公衆衛生」に関係する「public」をどのように福沢先生が理解していたかに興味があるのだが。

 「新しい言葉がほしい」(公衆衛生,40,546,昭51.8.)「言葉のもつ意味」(弘前市医師会報,233,71-73,平成6.2.15.)にも書いたことなのだけれど、”public”の理解は難しい。今話題の田中長野県知事の「パブリック・サ−バント」も。

 英国での経験また原著を沢山購入して帰国し「洋学」(この場合は英学)を中心に「社中一同」新しく「義塾」をつくった様を「然ば則日本第一か」と慶應4年に緒方塾で一緒だった友人に書いている。先生35歳の時である。

 生徒から毎月金を取ると云うことも慶應義塾の発案であった。「教授も矢張り人間の仕事だ。人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある。構ふことはないから公然価を極めて取るのがよろしかろうと云うので、授業料と云う名を作って」と書いている。

 私には福沢先生が小さい時の「稲荷様を見てやろうと野心をおこし」ご神体の石をかえて「おれの入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白い」といったり、よく話題になる「サンフランシスコの写真屋の娘と一緒に撮った写真」を出航したあと皆にみせて「一時の戯れに人を冷やかしたことがある」の方が興味がある。

 また杉田玄白らの「解体新書」の写しがみつかったとき再版し「蘭学事始」と改題し世に出した才能を買いたい。またその影響を受けていることだろう。「義塾」の意味がどうだこうだと云うより、「ネ−ミング」の才があるとみたほうがよいのではないか。

 それより、具体的に何をどうしていったかを考える方が大事であると思う。

 中国の宗史にある「自我作古」(我れより古イニシエを作ナす)が前出の「慶應義塾之記」に使用されているのは、「蘭学でなく英学で新文明を築いて行くのだっと意気込みを表す言葉を使ったのであろう」とする説明のほうが納得される。

 もっとも当の福沢先生は「先生」(日本医事新報,3741,56,平成8.1.8.)に書いたように「 僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず、これを総称して社中となづけ・・」といっているのだから、先生が名づけた言葉を後になってあれやこれやと「きめつけるのは」どうかと思うのが私の考えである。「ヒポクラテスに聞いてくれ」(日本医事新報,3196,109,昭60.7.27.)と同じである。

 

 追加

 今から100年前新世紀を迎えるために三田で行事を行ったことがテレビなどで先日話題になった。福沢先生は「独立自尊迎新世紀」との書を残された。21世紀を迎えるために色々行事が行われたようだし、案内を戴いたが私は参加しなかった。ただ「0000迎新世紀」の四字熟語を募集していたので、コンピュ−タで送っておいた。どんな言葉があったかはまだ知らないが私の作は「義塾発展迎新世紀」である。(20010201)

(弘前市医師会報,276,51−53,平成13.4.15.)

もとへもどる