あらかわバイロイトレビュー(2010年4月23日)  寺西 肇(音楽ジャーナリスト)

しなやかな芸術性と音楽性、そして何よりも独創性にあふれたステージだった。4月23日から3日間にわたり、東京・サンパール荒川大ホールでひらかれた第2回ワーグナー音楽祭「あらかわバイロイト」での「ワルキューレ」公演の第1日。タクトを振った佐々木修は「ドイツから来演したクリスティアン・ハンマー指揮による第2、3日に比べれば、我々は“前座”に過ぎない」と謙遜していたが、実際にはすばらしい仕上がりで聴衆を沸かせた。「あらかわバイロイト」には、今や一種の権威の象徴となってしまった本場バイロイト音楽祭も「草創期にはきっとこうだったに違いない」と思わせるだけの、気迫と熱気に満ちていた。

 キャストは全員、自分の役に並々ならぬ思い入れを込めての大熱演。特に、この日の"目玉"のひとつは、気鋭のバリトンとして既に高い評価を得ている今尾滋が、ジークムントとして出演することであった。早稲田大を卒業後に東京藝大大学院に転じ、修了後は国内外のコンクールで入賞を重ねた異色の経歴を持つ実力派が、初めて挑戦するテノールの大役。演技力の高さや、舞台へ登場の際から溢れる圧倒的な存在感はもちろん、高音域の発声にもまったく危なげがない。それどころか、むしろ伸びやかさすら感じさせる。しかも、本来のバリトン歌いとしての経験から来る低音の豊かさは、他のテノールが持ち得ないもの。「テノール歌手・今尾」にとっては、今後も強力な武器となろう。

 ジークリンデを歌った岩川亮子は、このステージが本格的な東京デビューとなる。海外への留学経験も、華々しいコンクールの入賞歴もなく、地元・愛知からほとんど出ることのなかった彼女。しかし、宝石の原石どころか、既に眩い輝きを湛えた宝石そのものであったことは、このステージを聴いた誰もが納得するところだろう。歌手としては決して恵まれていると言えない小柄な体躯だが、そこから紡ぎ出される美声と十分な声量、そしてきめ細かな演技は、それを補って余りある。ジークムントによって一瞬の希望を与えられるものの、再び絶望へと突き落とされる可憐なジークリンデ像を紡ぎ上げ、聴衆の同情を誘った。

 岩川とはまったく異なる形で、キャラクターの魅力を掘り下げたのが、ブリュンヒルデ役の福田祥子であった。ステージ上に現れるだけで聴衆の目を引く、日本人離れした恵まれた体格。そして、十分なボリュームを備えた美しい声。歌わずとも感情表現のできる、特に目の演技のすごさ。それに、何より驚くべきことに、福田はこの公演の初練習時、ドイツ語がまったく話せなかったと言う。それを、共にオーストリアへの留学経験を持つ、公演監督の田辺とおると指揮の佐々木が徹底的に特訓したのだとか。甲斐あって、実に堂々たるブリュンヒルデとなった。確かに、ドイツ語特有の語尾の発音が甘いのは少し気になったが、まったく話せなかったとは信じ難いほど。このステージが、日本では稀有な本格的ワーグナー歌手を誕生させることになったかもしれない。

 また、狡猾なフンディングを演じた西拓也は、本場イタリアで研鑽を積んで帰国したばかり。しかし、このワーグナーのステージにあっては、イタリア・オペラ臭さはまったくなく、むしろ卓越した美声であるが故に、この役の冷徹さがより際立ち、彼の歌手としての度量の大きさを存分に感じさせた。また、フリッカの向野由美子も、登場場面の少なさの割に存在感は十分。高潔な役にふさわしい歌い回しは、オペラだけでなく、宗教曲を得意としている持ち味から培われたものだろう。岡元敦司も、まだ若手ながらも、父親であり神である優柔不断なヴォータンを上手く演じ切った。ブリュンヒルデの妹たちも、小さな役と言うことに関わりなく、それぞれが思い入れをもって臨んでいるのが見て取れた。

 演出の伊香修吾は、東大の学部と院で経済学を修めた後、ロンドンで舞台演出を学んだ変わり種。製作費用は言わずもがな、様々な制約のあるステージだったが、シンプルな舞台装置を最大限に生かして、実に効果的な表現が得られていた。終幕近く、ヴォータンが自らジークムントの命を奪う思い切った演出には異論もあるようだが、神としての立場と、ブリュンヒルデの父親としての立場を逡巡した上で、結局、娘への愛情に傾いたが故に自ら手を下すと言う選択をするという流れには、少なくとも筆者は違和感を覚えることはなかった。

副業のビジネスの成功による多忙から、しばらく指揮台から離れていた佐々木だが、そのタクトはシンプルながら丁寧で、清潔さに満ちている。そこから紡ぎ出されるワーグナーは、オーケストラの規模のせいもあるが、どこかモーツァルト的で風通しがよい。これも、重厚なワーグナー像を理想とするならば物足りないかも知れないが、そこに特別な思い入れがない者にとっては、むしろ新しいワーグナーの世界を切り拓いてくれる、独創的で魅力的な音楽創りと捉えられた。フリー奏者たちで構成されたTIAAフィルハーモニー管弦楽団も、重要なライトモティーフをきっちり聴かせ切れないなど、技量の面では少なからぬ問題があったが、佐々木のタクトに食らいつき、何よりも「良いステージを作ろう」という“やる気”がみなぎっている。

 昨年5月の「パルジファル」でスタートし、今回で2回目となる「あらかわバイロイト」。自治体や大手企業のバックアップもほとんどなく、出演者たちの手弁当に近い形で運営されているという。しかし、それでもやってゆこうとする熱い思いから生まれた音楽が、聴衆に伝わらない訳がない。今尾のテノール・デビューを見届けるために来聴した礒山雅・国立音楽大教授は「失礼な言い方かも知れませんが、こんな場所で、これほどの演奏に出会えるとは…しっかりと音楽が伝わってきますね」と感想を漏らしていた。そんな「あらかわバイロイト」は来年1月、「特別公演」としてワーグナーの弟子であるフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」、さらに秋には第3回公演も既に決まっている。さらなる発展と名演を期待したい。


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