3月のご挨拶
3月になりました。
先月は、ワルキューレの稽古の合間に4枚目となります長井充さんのCDを制作しました。長井さんは今年で75歳になります。世の中的には後期高齢者で、ほとんどの人が現役を引退していますが、長井さんは歳を重ねるにしたがい益々輝きを増しているように思います。その長井さんを冷静に分析してみたいと思います。まず、早期教育での徹底した訓練。長井充さんの母方の祖父は、大阪音楽大学創立者の永井幸次で、幼少の頃より徹底したピアノの訓練をしたそうです。いつの世でも東京芸術大学のピアノ科に合格する事は、その時代のトップという意味があります。しかし、ピアノだけあまりにのめり込んだために、芸大在学中に肉体的、精神的に破綻をきたし、ピアノが弾けなくなります。そこでキリスト教に出会い救われたそうです。その後、武蔵音楽大学の助教授までつとめましたが、定年を前に家もピアノも売払い、地方で信仰の道に入ります。そして70歳を前に東京に戻り、現在はアパートの一室で奥さんとつつましく暮らしています。そのアパートには粗末な電子ピアノがあるだけで、本当に録音のときだけ生ピアノを弾くのです。
CDは5月に発売の予定です。http://www.youtube.com/watch?v=pevUZEqPD_U
さて、来月私が指揮をする予定のワーグナーの楽劇「ワルキューレ」ですが、これが様々な意味で桁外れです、一般的なオペラとのと一番の違いは、聴衆に対して媚びないことでしょうか。つまりカルメンや椿姫は、特に準備なしにも劇場で楽しむことができますが、ワーグナーの場合は、音楽を楽しむことも歌を楽しむこともおそらく出来ないと思います。ワーグナーの魅力はたとえていうと、すばらしい自然現象に出会った時や、世界遺産を間近にしたときの感激でしょうか。そしてワルキューレを実際に演奏することは、つまりその人類にとっての巨大な音楽の建築物を実際に作る現場に居合わせる幸せといえるでしょう。
ここで大戦の前後に活躍したユダヤ人の作家、シュテファン・ツヴァイクの「人類の星の時間」を思い出します。
「芸術家の創造において成就される本質的、永続的なものは、霊感によるわずかな、稀な時間のなかでのみ実現する。同様に、歴史のなかでも崇高な、忘れがたい瞬間というものは稀である。……無数の人間が存在してこそ一人の天才が現われ出るのであり、坦々たる時間が流れ去るからこそ、やがて本当に歴史的な、人類の星の時間というべきひとときが現われ出るのである。」
ツヴァイクはこの本をザルツブルクで書きましたが、ザルツブルクでは音楽祭での最上の演奏会を「星の時間」といいます。4月のワルキューレも、この「星の時間」になることを願って精進したいと思います。